中村 寛さん 四段審査小論文 2019.6.22

2019622

合気会会員No. 168012

合気道幸徳会)中村 寛

【昇段審査提出物:小論文】

 

< 合気道の『道』たる所以についての考察 >

 

合気道の稽古を始めてから、今年で19年目となる。

武道との関わりは、学生のときに和同流空手を始めてからとなるが、途中のブランクを経て合気道に出会い、初心者教室から稽古を積重ねて現在に至る。これまで2つの武道に関わってきたわけだが、「武道」、あるいは「合気道」という単語に『道』という文字がついている意味合いというものをこれまでさほど深く考えてきたことは無かったように思える。

今回四段を目指すにあたり、改めて考察してみたいと思う。

 

私のこれまでの合気道稽古を振り返ってみると、年を重ね、稽古を重ねるごとに稽古の視点が変化してきたことを認識できる。

例えば、昇級の過程では、技の形・動きそのものをいかに正確に体現できるか。初段を取得し、弐段までの間は、いかに相手の気(力の方向)を感じ、それをふまえ、自分の気の流れ(動く方向)を意識するか。参段取得後は、より基本/根幹に立ち戻り、丹田/重心の位置、体の軸、受けの崩しを意識しながら技の成り立ちを改めて学び直す等、変化してきた。

すなわちこれは、外観から内観、さらには「精神」「思想」「心」にまで通じるであろう長い道のりを稽古を通して歩み続けているということなのだろうと思う。

一方、最近の合気道に対する私自身の意識の転換点として「指導者」としての視点が加わってきたように思える。というのも、これまで師範/先生方からご指導いただく稽古スタイルを長く続けてきたが、数年前より、子供の稽古指導をする機会に恵まれ、小学校1年~中学生まで幅広い年齢層の指導をお手伝いさせていただいていることに起因する。  

今まで、自分を主体として捉え、稽古してきたが、他者を指導することにより、新たな気づきを得ることができてきたと思える。

例えば、子供達にできるだけ分かりやすく、言葉/行動で説明することを考え、工夫・実践することを繰り返していくことにより、実は、自分が、技の成り立ち/在り方をよりシンプルに整理し咀嚼することにつながっているのではないかと感じるようになったことである。これは、私にとって新鮮な驚きであり、非常に有意義な経験となっている。つまり、指導を通し、子供達が成長し、成長させるために自分自身が改めて技を見直し、余計なものを削ぎ落としたコアを改めて自分に吸収し直しているという正のスパイラルが起きているということである。

更に、子供達への影響に目を向けてみると、身体的にも精神的にも成長著しい子供達に対し、合気道指導という側面から子供達の育成に一部参画することにより、結果的に子供たちが、合気道の技の上達のみならず、落着き、集中力、注意力、相手を思いやる心等々を成長させていく過程を明確に感じられる数多くのケースを経験することができたことも事実である。

 

以上の経験を通し、私は、これこそがまさしく、武道「合気『道』」の『道』たる所以であり、武道の「守破離」にも通じることだろうと思うのである。

 

ここで、同じ『道』を追求する他の例についても取り上げてみたい。1つ目は、仏教の修行僧のケース。僧侶の修行もいわゆる「仏の『道』」。 『親鸞』という本によると、彼は、最初は仏の道への関心はなく、恋だ欲だと謳歌していた時期もあったようであるが、仏門に入り、厳しい修行の繰り返し、自問自答の継続により、煩悩・雑念から自分を解き放った/解き放たれた瞬間、達観したという。

また2つ目の例として、自己啓発系の書籍にも度々散見されるメッセージのケース。「人は、何か必死に追い求められるもの、夢中になれるものを見つけるために、少しでも関心のあることに没頭してみることが重要。この没頭することを色々と繰り返していくうちに、目指したい目標のイメージができあがり、邁進していくことができる。これこそが理想的な生き方である。」とある。

これらの2例をふまえ、私は以下のように考えている。人間は、最初は夢中になれるものもなく、それが見つからず、すべてが中途半端に思える時期もあるが、いずれ目指したい目標が具体的なイメージになり、到達したい領域を目指し日々精進していく。この生き方が理想的な道であり、その一つのベースモデルとなる道の一つが武道であり、合気道であると考えられるのではないかと。

つまり、合気道の稽古を続け、指導を受け続け、相手と共に自己を高め合うことで、人として目指すべき道を追い求める一連のプロセスの一例・参考モデルを体験できる素晴らしい鍛錬が合気道なのではないかと思うのである。

殆どの子供達は、親に連れてこられて合気道稽古を始め、あまり関心もなく、目的意識も薄く、稽古を始めているケースが多いと推察する。しかし、稽古の継続によって、子供達の中には、無意識にでも『道』を歩み続けることで成長へつながっていることを脳が認識しているケースが存在するのではないか。だからこそ、どこかの時点・タイミングで、その人が追い求めたい人生の目標がイメージできてきた時、合気道で無意識にでも培った道の追求という実践経験が、理想的な人生をしっかり歩むための準備・支え・礎になるものと確信している。

 

最後に、合気道が故の『道』についての考えを記しておきたい。

私は、合気道を始める前は空手道を経験していたことは前にも述べた。一撃必殺の空手の試合では、やるかやられるかの真剣勝負の世界(と言われている)。一方、合気道は試合という概念はなく、演武を通して「気を合わせる」「和をもって尊しとする」世界。どちらも「武道」ということで、理合いがあり、精神があるわけだが、一見、両極端にもみえる。「やるかやられるか」は、やったかやられたら、その時点で終了の世界。一方、合気道は、相手の技を完全に受ける前に逆らうことなく受け身をとり、次のつながりに備える、という、いわば永遠につながる、つなげられる世界。

終了ではなく、次につながる、つなげることで相手と新たなつながりをつむいでいく...この繰り返しにより、相手と分かり合い、絆が深まり、和の世界がさらに広がり、自分を取り巻く環境がさらに良い雰囲気となり、正のスパイラルとなる。そんな思想を感じとれると思うのである。同じ日本の武道のジャンルではあるが、より合気道は『道』を追求していくのに最良な武道ではないかと私は思う。

 

今後、私は、これまで経験させていただいた「合気道の稽古」、「合気道の指導」という場を通し、合気道という『道』を共に歩みながら、共に成長していくことを継続・拡大していきたい。そして、その結果として、合気道の更なる理解と発展に貢献できれば幸いである。

道とは、人生であり、生き方・生き様の根幹となる考え方であり、途中で迷った時に立ち戻るべき哲学である。今後も人生の礎として、合気道と共に歩んでいく。そして、年相応の解釈・考え方の変化を楽しみながら、指導を通し、微力ながら後世を担う若い世代に合気道という素晴らしい道を伝えていきたい。

 

                                 以上


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