「 受け 」について

- はじめに -

明けましておめでとうございます。

母校の法政大学60周年記念誌に投稿するために、大学の稽古で感じたことを整理し、学生に向けてなるべく分かりやすく書いたものです。今年は正月三が日をこのために使ってしまい、幸徳会のことを例年のように振り返ることができませんでした。

その変わりという訳でもありませんが、幸徳会の皆様にも同じことが言えることだと思います。投稿用に書いたものを掲載しますので、ぜひお読み頂きたいと思います。

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合気道の「受け」について考える時、大きな考え方としてまず私は、技を掛ける側(取り手)の技術と合わせて、技を掛けられる側(受け手)としてのもう一方の側の技術として捉えてほしいと思っています。

受け手の技術というのは、どう投げられても怪我をしないように身を守れるようになることだと思います。逆に取り手の技術というのは、どんな状態でも技を掛けられるようになるということでしょう。

つまり、どちらか側一方に偏ってしまわずに、両方できることでしっかりとした合気道になるのだと思って取り組んでほしいと思います。

受け手についてもう少し言いますと、受け手はしっかりと正しく攻めてあげることです。合気道の技の体系は、取り手自らが攻めることで始まる技は無く、受け手が攻めることでこれに対応した技がスタートするようにできています。受け手は、しっかりと正しく攻めた上で、どう投げられても怪我をしないように身を守れる受け身をすることができるようになること、これが受け手のめざす技術だと思います。

 

私は「受け」とは、受け身で身を守れるということと併せて、正しく攻めることができること、そのように考えていますが皆さんはどう思うでしょうか?

例えば、学生と私が正面打ち一教の稽古をしているとします。私が取り手です。学生が正面打ちをしてきます。私は一歩も動かないと、その正面打ちが私の面に当たらず、その手前で空振ることがあります。そんな場合でも私は取り手として技を掛ける必要があるでしょうか。本来ならば技を掛ける必要なんて無いですよね。当たらないんですから。私に危害が及ばないのに相手の何を抑える必要があるのでしょうか。

受け手の学生は、私が前に足を踏み込んで攻めて来てくれると思い込んでいますから、しっかりと打ち込んで来ないんです。これは、先ほど話した受け手として「しっかりと攻めた上で」のという役割を満たしていませんね。それでは型として正しいでしょうか。正しい訳がありません。

それではなぜそんなことになるのでしょうか。私が思うには、攻めることよりも受けることに意識がありすぎるからだと思います。だから、攻めることが中途半端になるんです。攻めるよりも受けることに頭が働いてしまっているんです。相手がいつでも技を掛けに出て来てくれるのであれば、そんなに踏み込まなくたっていいだろう。かえって踏み込まないほうが、受け身が取りやすい、逃げやすいと思っているから

だと思います。こういう考えでは、受け身はうまくなりません。しっかりと正しく攻めた上で、取り手に掛けられた技に対する受け身ができるようにならないといけないという意識にならないと、受け身の技術は上手くなりません。それだけでなく、取り手側の技術向上にも悪影響を及ぼしてしまいます。

先ほどの正面打ち一教の例ですと、技を掛ける必要もない間合いなのに、無理をして攻めて技を掛ける格好になる訳ですから、相手との間合いも間違って覚え込んでしまう可能性があります。

合気道の稽古というのは、取り手と受け手が連鎖し合いながら、一つ一つの型を作るので、受け手の攻め込みが正しくないと、取り手の技も上手くならず、そして受け手側の受け身自体も上手くならないという関係にあると思います。だから、「取り」だけが上手い。「受け」だけが上手いということではなく、「取り」と「受け」が正しく行うことでお互いが上手くなるのだと思います。

 

今回は合気道の「受け」についての話ですから、これまで述べました2つの要素、

1.攻めること 2.受けること の2つについて、学生の皆さんと稽古をして私が特に感じたことを私なりに少し掘り下げてみたいと思います。

 

1.攻めることについて

 ① しっかりと正しく打ち込むこと

 しっかりと正しく打ち込むというのは、どういうことでしょうか。正面打ちであれば、相手の面に打ち込めるように間合いを取って立ち、相手に届かない場所でまず手を振りかぶります。そして、前足で踏み出しながら、振りかぶった手を相手の面に落として行くように打つことです。こんなことでも結構できていません。前足が出てから手を振り上げている人もいます。これだと、剣であれば、そのポイントに合わされて突かれてしまいます。突いて来た場合には、それを上段から打ち落とせる状態になっていないといけません。

 

 ② まっすぐに打ち込むこと

 取り手としてじっと立っていると、まっすぐに打ってこない人がいます。正面打ちが右に反れたり左に反れたりします。突きの場合も同じことがあります。正面打ち入り身投げや突き小手返しなど、取り手が体捌きをしなくても動きやすいように打ってきてくれる人がいますが、これは稽古としてはどうでしょうか。しっかりとまっすぐに打ち込むことで取り手側は体捌きの訓練になります。もしも、スピードが早すぎて体捌きができない人を相手にするのであれば、打つスピートを加減してまっすぐに打ってあげたほうが良いと思います。

 

 ③ 手の振り上げ・振りおろし方について

 肩や肘、手のひらまでも力が入り過ぎてしまって、手の振り上げおろし方が棒のように硬く、力を入れて打ってくる人がけっこう多いように思います。肩も肘にも手の先まで力が抜けて、むちのようにしなやかで伸びのある打ち方で打つようにしたほうが明らかに良いと思います。力んでバットを振っても凡打にしかならないし、ゴルフスイングの場合でも明らかにボールは飛びませんよね。剣を振っても同じことです。それから、手の振りをあえてもっと大きくしたらいいと思います。当てに行くのではなく、切りに行くつもりでしっかりと手を振り上げて打ってほしいと思います。これは、取り手の稽古を手助けすることにもなります。

例えば、正面打ちで受け手が打つタイミングを捉えて、入り身投げをする稽古だったとします。手の振りが小さすぎて、とても入り身に入る間を取ることもできないのに、無理をして、入り身投げをしようとしたとします。その結果はどうなりますか? 取り手側は、もう入り身投げの入り身をする間やタイミングをはかること、気を合わせること、入り身の体捌き、一歩目をどの位置に置くべきかといった、入り身の稽古で意識しなければならないことをすべて捨てて、相手の手を払って、強引に入身投げをしようとしてしまいます。だから、なんだか受け手側も取りも強引で一体感が出てこないのではないでしょうか。また、正面打ち入り身投げでまっすぐに打っていくと、取り手の前足がまっすぐに出ずに、入り身する側に寄って斜めに入る人がいます。これも、受け手の打ち方が入り身の体捌きに弊害を与えている一例なのかもしれません。私は前足の一歩目は相手にまっすぐに入ることで、体をどちらに捌くのか悟られないように動くのが正しいと思っています。

ではどうしたら良いと思いますか? 私は受け手側が、打つ手の肩を大きく開いて、肘を伸ばして腕を大きく振り上げて、相手の頭の上に振り下ろすように打って上げると良いと思います。先ほども触れたように、肩も肘にも手の先まで、力が抜けてむちのようにしなやかで伸びのある打ち方で、ということです。最初のうちは少しオーバーアクションに見えるくらい大きく振ってもいいと思います。

このように受け手が大きく打って上げると、取り手は入り身に入りやすくなるので、間やタイミングの取り方、前足で相手に対してまっすぐに足を踏み込んだ後の入り身の体裁きを行いやすくなると思います。ゆっくりとできないものを速くできるわけがありません。なんとなく速さでごまかしているだけです。最初からハードルを高くせず、やりやすいところから慣らしていくようにすることも上達を早めることにつながるのではないでしょうか。

先ほども言いましたが、受け手側の「受け」の動作によって、取り手側の技の成長にも大きく影響を与えてしまうということです。両者は相互作用によって成り立っているんです。そして、少しずつ対応できるようにしてあげる。つまり、打つスピードを変えて行き、対応できるように稽古していけばいいと思いませんか。  

師範演武などを見る時、師範の先生を見るのは大切だけれども、受けをしている人の打ち込み方なども見てみたらどうでしょう。打つスピードは早いですが、しっかりとしなやかに打っています。注意して見て、自分と何が違うのかを感じて、考えてほしいと思います。

 

2.受けることについて

 ① 気構え

 気構えとして、その言葉通り、受け身にならないことです。受け身はきまってしまってから動いても遅いんです。きまる前に自分から動いて受け身をすることで、体制を整えたり、衝撃から身を守らなければなりません。ですから、取り手より素早く動くつもりで、怪我をしないように受け身をする必要があります。しかも、先ほどから話している通り、しっかりと攻めた上でこれをしないといけないんです。だから大変なんです。まじめにやるとこんなに大変なことはありません。取り手よりも運動量は非常に大きくなります。

  

 ② 腰を引かずに出て行くこと

 例えば、肩取り一教で取り手がつかまれている腕に手刀で合わせながら、斜め後ろに引いて、技を掛けようとしたら、あなたは受け手として咄嗟にどう反応しますか? 受けの上手い人は、その場所に居付かず、相手の動きに応じて、これに合わせて前に出れる人です。相手の衝撃に対してこれを和らげ、相手の動きに合わせて動くことで体制を立て直すのです。反対に咄嗟に踏ん張ってしまうと腰が引けてしまうだけでなく、相手の崩しに対して逆らうことになってしまうので、相手がそれ以上の負荷を掛けてきて怪我をしてしまうこともあります。受け身というのは、理屈よりも稽古量がものをいいます。繰り返しの稽古による条件反射ですから、稽古量が少ない人ほど、咄嗟に相手に合わせて動くことができません。

 

受け手がしっかりと取り手の手を持って技を掛ける稽古があります。力の出し方や腰の入れ方を学ぶために取り手側が技を掛けるために行なう稽古です。「受け」の稽古ではないので、何のための稽古なのかを切り分けて稽古してほしいと思います。

 

 ③ 点を捉えて受けようとしないで、瞬時に流れを読み取って相手の気の流れに合わせて受けられるようになること

 ①②でも話していますが、その時の状況や相手の動きを瞬時に捉えて、大きな流れの中でどう動こうとしているのか、その動きに自分の動きを合わせて行くことが大切です。相手に逆らわずに自分から身を守ることです。合気道は関節を決めて投げますから、頑張っていたら怪我をするだけです。

 

 ④ 「受け」の稽古は心の強さと自信を育む    

 「受け」の上手い人は、取り手があまり上手くなくても、相手の未熟さを補って受け手役をすることができます。上手い受け手の方と稽古をすると、さして自分が上手くなくても、上手くなったような気分にさせられることがありませんか。これは、受け手の方が取り手の踏み込みのあまい部分に自らが入り込んで、自ら技に掛かってくれるように動いてくれているからです。でも彼がそうしているのは、何も親切心で受けている訳ではありません。自分本来の受けの技術を向上させたいと思っているだけなんだと思います。受けに徹しているということです。これは受け手にとってはとてもきつい稽古です。ただでさえ、受け手の運動量は多いのに、相手の足りない部分も補うように動くからです。稽古を止めて、取り手の未熟さを指導してあげることも必要なことかもしれませんが、それもすべて受け入れて、全部受け尽くそうとするような稽古も重要です。こういう地味な稽古が強い心を養い、自信を育むことに繋がると思います。

つらい稽古で正しく受けをするというのは、よりつらい中に自分を追い込むことですから、うまくなりたいと思いつつも、その中になかなか自分から入りたがらないのが本音です。「受け」っていうのは手を抜こうと思えば抜けるんです。それに耐えてもコツコツ「受け」を取る人と少しずつ手を抜く人で差が出てくるように思います。「受け」の稽古というのは、まさしく自分との戦いなんですよね。千本ノックに似ていますよね。

 

 ⑤ 「受け」の上手い人に「取り」の下手な人はいない

 「受け」が上手い人に「取り」の下手な人はいないと思います。実際にこれまで例外なく、そういう方はいませんでした。なぜなのだろうと考えたことがあります。理由の一つは相手に合わせる感覚や間合い、動くタイミングなどを「受け」の稽古で学んでいるからだと思います。相手の動きを読んでこれに合わせて動くことができるようになるということは 「取り」 の技術にも大切な要素を育んでいるのだと思います。ですから、尚更にしっかりと意識して学んでほしいと思います。

 

 

少し話を変えますが、学生から合気道を始めた人と社会人になってから始めた人との圧倒的な差となって現れるのは何だと思いますか? 私はこの 「受け」 だと思います。先ほどもお話しましたが、「受け」の上達は、稽古量が圧倒的にものをいうからです。若いうちでないとその運動量をこなすことができません。また、社会人になると怪我することが絶対にできないので、それも受けの稽古量を阻害する要因になります。だから学生から始めるに越したことは無いんです。

また、受けが上手くできると自信がつきますよね。私の学生時代は、通年すると「受け」が7割、「取り」が3割くらいの印象でしたが、「受け」は、本部道場で有川先生の受けを取っていたこともありましたから、確かに上手くなった実感がありましたが、「取り」については、どうやっても、師範のようにできず、しかしエネルギーが有り余ってどうやったら同じようにできるのか、焦ったりもがいたり、それは悶々とした悔しい日々の記憶しかありません。

ただ、「取り」の比率が増えたからといって、今思うとさほど上手くなったとも思えません。なぜなら、私は合気道を始めて40年経ちますが、今でもずっと「取り」について考えさせられているからです。

4年間でなんとかできるほど、そんなに甘いものではありません。そうだとすると、私個人的には、仮に4年間という時間制約の中で合気道を行なうのであれば、稽古の細部の改善という意味では時代に応じて必要な部分もあると思いますが、これまでの稽古の大枠は正しかったのではないかと思うのです。

「受け」が主体でも、心と身体は鍛えられます。(怪我をしない身体作りや柔軟性を身につけることは必要だと思いますが。)

4年間を終えて、社会人として旅立った時に、挫けそうになってもその度に立ち上がって、攻める気持ちを忘れずに、世の中に投げられてもこれを受けとめてまた立ち上がって・・・、でもいつかなんとかなるんじゃないかと思えるこの裏づけのない自信みたいなものをまとうことができるならば、それは意味のある4年間だったと思えるのではないでしょうか。若いのなら、それくらいやってほしいと思います。

社会人になっても合気道の魅力に魅せられて続ける人が出てきても、これから長く続く道のりを越えていける素養を 「受け」 をはじめとする稽古を通じて学んでいるわけですから、これを糧として進んでいけると思います。

 

学生の皆さんは「取り」が上手くなりたいと思っているでしょう。だったら私はあえて「受け」もしっかりと意識して学びなさいと言いたいのです。「受け」は「取り」の付属品でななく、「取り」と一体のものです。4年間に無駄な稽古はありません。血肉となるまでしっかりと学んでほしいと思います。

最後に、学生の皆さんにこの文章が、何かの “気付き” となり、心に変化を与える一助になるのであれば、非常にうれしく思います。辛いことを恐れず、実りのある4年間に自分自身の手で作り上げてほしいと思います。

                                   以上

 


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