「かたい稽古」と「やわらかい稽古」について(1)

10月に入り、秋晴れがみごとな季節になってまいりました。暑さを気にせず、十分に身体を動かすことができると思います。準備運動をしっかりとやって、身体を温めてから稽古するようにして、けがのないように注意して頂きたいと思います。

前回掲載してから、随分と時期が空いてしまいましたが、今日は、「かたい稽古」と「やわらかい稽古」ということについて、私の経験を通して思うところを述べてみたいと思います。長くなりそうなので、何回かに分けて掲載することに致します。

私が合気道を始めた30年前、この頃学んだ合気道は、気の流れを中心とした稽古で、相手を迎えて、しっかりと腕を持つか持たないかのタイミングで技を掛ける稽古でした。動きも比較的早く、受け側もこの気の流れに応じて動く必要があるので、相手に合わせて動いて受けをするという稽古だったと思います。
良くも悪くも、流れを事前に察知しながら動くという勘のようなもの、また、気の流れる道筋を大切にすることを、この頃の稽古で育んだのではないかと思います。
こういう気の流れと気を合わせる稽古を「やわらかい稽古」と定義することにします。

私は大学に入学と同時に大学の合気道クラブに入りましたが、ここではガッチリと腕を持ってから技を掛けようとする稽古でした。あまりの合気道スタイルの違いに戸惑いましたが、私も高校3年間、合気道を学んでおり、仮にも黒帯まで締めていましたから、浅はかにも、多少のプライドを持って望んだわけです。しかし、ガッチリと持たれてからでは、技を掛けようにも、満足に動くことができませんでした。力の強い人が相手だと、手首の筋肉が圧迫されてしまって、指先にも力が入らない始末。これはいやがらせか?と思いましたよ。「これが合気道なのか?気を合わす道なのではないのか?こんなことはできるわけがない。」とも思いました。
私は自分のおこなってきたことを正当化したかったのです。しかしその反面、「しっかりと持たれたからといって満足に動けないというのも情けない。そういう事態に対処できてこそ、武道ではないのか?」と自問自答してみたり。。。学生が主体での稽古なので、このしっかりと持って行う稽古法というものにどういう意味があるのか、先生に会ってしっかりと確かめたいと思いました。
そして初めての有川定輝先生に指導頂く本部道場での稽古の日を迎えます。これが、私の合気道に対する考え方を根本的に変える日になるのです。
このしっかりもたせてから行う稽古を「かたい稽古」と定義することにします。

我々の有川先生による直接の指導稽古は、当時、毎週火曜日の昼すぎでした。上級生ほど緊張した面持ちで、冗談も無駄口のひとつもなく、シーンとした道場でただひたすら先生が来られるのを正座して待っておりました。緊張して先生の足音を耳を澄まして待っている間が、やけに長く感じられたものです。
先生が来られると、稽古は主将を受けとする先生の模範で始まります。はじめは、諸手取り呼吸法。当然、大学入りたての私よりも数段力のある主将が力一杯つかんでも、片手で相手がいることさえ関係ないかのように上に崩したと思ったら、下にバーンとたたきふせてしまう。やっぱりできてしまうんだと、学生がわざと嫌がらせのためにやっていたわけではなかったのだと、いろんなことが一発ではっきりしてしまいました。しかも早くやってくれたり、ゆっくりとスローで見せてくれるんです。でもなぜできるのかとか、どうやってするのかなんて説明はありません。きっと聞いたところで、その頃の私では理解できなかったでしょう。
そのあとは、学生同士が組んで実際にやっていると、先生は私のところで立ちどまって、つかんでみろ、というようにスーっと腕をだされたので、パッっと両手でしっかりつかみましたが、まず腕が太すぎて持ちきれない。タイヤのゴムのような硬くて弾力がある感じで、持った瞬間でもう力が入らないのでダメだと感じました。しっかり持とうとすればするほど、動かされて崩されてしまうので、どうしようもない感じでした。先生はちょっとニャっとされると、もう別のほうへ歩いて行かれてしまっていました。
これ以後も、先生の教え方は、いつもこんな感じでした。

あと、正面打ち一教の模範を見せて頂きましたが、この時の説明が印象的だったんです。これについては前にも書いているのですが、ベクトルの話を方便として持ち出され、手が斜め前に出て相手の肘を崩そうとするのではなく、手は天と地を結び、足が前に出ることで、相手をベクトル方向に結果的に崩すことになる、というようなお話をされました。合気道を習っていて、まず、ベクトルなんて言葉を聞いたことが初めてで以外だったこと、相手に力が作用するのには、ちゃんと理屈があるものなんだということが、なんとなくわかりました。
それまでの過去3年間の中で、ひとつも疑問がなかったわけではありません。しかし、何か、合気道を続けていれば、自然と解決されるものなのだと思っていました。
当時は、「気」とか、「呼吸力」とかという言葉が持てはやされ、合気道が神秘的な武道であるかのような風潮があったのです。しかし根本的な解釈を私は間違えていることに気づきました、というより、気がつくきっかけを与えて頂いたのです。表向きは神秘的と思えることにも必ず裏があるのだと。

有川先生が言いたかったことは、しっかりとした身体を作った上で、考えて稽古なさいということを言われたかったのでしょう。これは、およそ合気道に限らず当たり前のことです。なぜこんなことがわからなかったのでしょうか。
この時あたりから、「気」とか、「呼吸力」とかというよくわからない言葉の魔術に頼ることをやめて、自分の力がもっとも相手に有効に働くにはどうしたらいいのか、相手がつかんできても、力が入らないというのはどうしたらできるのか考えてみようと思うようになったのです。私はこの日から、納得して白帯からやり直すことができました。

(次に続く)


概要 | プライバシーポリシー | サイトマップ
Copyright©2017 合気道幸徳会 All Rights Reserved.